International Professional University
of Technology in Tokyo
学長メッセージ
東京国際工科専門職大学 学長
吉川 弘之
【第7回】“社会とともにあるデザイナー”が持つ基礎学問
専門職と専門家はどう違うのか、新しい制度の下でつくられた専門職大学と50年以上前に制定された制度による700もある大学とは何が違うのか、などをいろいろな角度から考えてきました。新しい時代の要請に応えるために新しい制度ができたというのがその答えだとしても、その違いをもっと明確に表現できないものでしょうか。それは大学である以上持たなければならない学問を、他の大学とは違う専門職大学固有のものとして示すことであると思います。その学問は次のような考えから生み出されます。
「人の思索は基本的に分析と総合とからなっている。分析の主役は科学で、分析的思索の結果は体系的な『科学的知識』として歴史的に築きあげられてきた。一方総合は、デザインが主役で、総合的思索は多様な『人工物』を作り出したが、それはおびただしい数に上るが、体系的でない。」
そして分析と総合には深い関係があります。分析は存在するものを見てその背後にどんな法則があるのかを求める行為であり、その成果が科学的知識です。一方総合は科学的知識を使って現実に存在するものを作り出す行為であり、その成果が人類の環境(存在)です。このように言ってみると、科学は〈存在から知識〉、デザインは〈知識から存在〉という関係にあり、分析とデザインの思索は「行きと帰り」の関係にあることがわかるのです。
とりあえずこのように考えると、すっかりわかったような気がしますが、この「行きと帰り」は手ごわい構造を持っていて、行きがわかれば帰りがわかるわけではないのが問題です。例えば、現代の分子生物学は、生体現象を詳しく調べて多くの法則を発見しました。ゲノム、細胞、組織などはもちろん、生体で起こっている現象、細胞分裂、成長、免疫など、広範な対象を分析によって解明し、多くの生命現象独自の法則と体系的知識を築きあげているのです。しかしデザインという意味では、生物を作るということには成功しておらず、もっとも簡単な生物である微生物も作れません。
この難しさは次のように説明できるでしょう。行きはある目の前の現象(現実)から一つの法則に行き着くこと(分析)。しかし帰りは、その行き着いた場所(法則)から歩き出してみると、元の現象に帰れるだけでなく、無数の現実の点へ行く。例えばニュートンは天体の運動(現実)を調べて(分析)法則に行き着きますが、その法則を出発点としてどんな物体の運動も実現(デザイン)できます。ところが微生物の現象は分析できても、それを作ることはできません。この違いは謎とも言えますが、今のところはニュートンの場合、物体の運動は一つの法則で表せるのに、生物の場合は法則がたくさん関係していて十分調べつくされていないからではないか、というような答えしかできません。
例えば、もしすべての法則を全部見つけることができるなら、その時はそれを使えばどんなものも“自動的に”、ということはだれでも望み通りのデザインができるといえそうな気がしますが、現代の科学にその見通しはなく、真面目にこのように考えている科学者はいないと言ってよいでしょう。ここに分析を中心とする科学のほかに何かデザイナーの思索を導く体系的知識が必要なのではないかと考える理由があります。
その体系的知識が「デザイン学」ですが、分析を中心とする現在の学問体系に対応して作られている伝統的な大学にはそれを担当する人はいません。ですから“Designer in Society(社会とともにあるデザイナー)” を目標とする専門職大学にその学問を作る責任があるのです。そしてこの課題が私たちの前にあり、大学は固有の学問的な基盤を持つことで一人前になるという広く求められていることに対し、われわれの専門職大学はデザイン学を持つことで応えることになります。
デザイン学はまだ成長の初期にあると考えられますが、実はデザイン学が人間の思索に重要であることが400年も前に指摘されていたのを人類は放置したまま現代に至ったことを前回述べましたが、そのデカルトの指摘を以下に見てみます。
デカルトは1596年生まれですから、もちろん専門職大学のことを考えていたわけではありません。関係があるというのは、デカルトの哲学は現代の科学の考え方に大きな影響を与えていますが、彼の哲学の中の一つの重要な指摘が、現代の科学あるいは哲学で十分に受け止められていない点があり、その指摘が私たちの考えているデザインと関係があるということなのです。その指摘とは次のような、難問を解く思索で従わなければならない四つの必要な「方法の規則」です1)。
1.明証の規則:自分の思索の中に現れるものの中ではっきりと説明できるものだけを扱う。
2.分析の規則:難問を分割し、もっとも単純な直感的に理解できるような小部分に分ける。
3.総合の規則:もっとも単純なものから始めて、一つずつ階段を昇るように、もっとも複雑と考えられるものまで昇る。
4.枚挙の規則:このようにして得られる認識のすべてを数え上げ、見落としがないことを確信する。
各規則の説明は原文に忠実ではありませんが2)以下の話につながるように簡単にしてあります。これは分析するだけでは真理はわからず、分析結果を使って複雑なことを考えたとき何ができるかを全部数え上げなければ真理を見極めたことにはならないと言っていると解釈されます。
さて、この難問を解く思索に必要な規則は、学問における真理探究のための必要条件であるとデカルトが言っているのです。デカルトは科学に大きな骨格を与え、そのおかげで私たちは科学的知識という見事な体系を持った現代の科学を築き上げることに成功したと言われています。しかし現在、科学が人類にもたらすものは恩恵だけでなく、副作用としてすでに述べた「現代の邪悪なるもの」(環境破壊、過酷な戦争、貧富の格差など)を引き起こしているとして、デカルトの限界を指摘し、脱構築などと言って新しい枠組を求めることも行われています。
このことについては専門家たちの多くの議論がありますが、それは専門家に任せるとして、私たちデザインを専門とするものから見ると、この「総合の規則」と「枚挙の規則」はまさしくデザインであり、デカルトはこの手順も踏まなければ真理には到達できないと言っているのです。
一方の「明証の法則」と「分析の法則」は、人類がこれらに従う思索によって科学という体系的な知識を作り上げました。現代の科学は、基本的にはデカルトの言う「分割して小部分を切る」という手続きを守って思索することによってその結論が仮説であるとしても、それは科学自身によって棄却されない限り正しさを保証することになっています。
しかしデザインは総合によって物を作りよいものが生き残るのですから、デカルトは「総合の規則」と「枚挙の規則」に従って思索することを求めています。しかし、現在のデザイン思考は、デカルトの規則を守ってはいません。デザインの思考は、デカルトの規則のように自分の思索を「一歩一歩確認しながら」複雑なデザイン目標に近づいてゆくのではなく、直観的、感性的な飛躍を伴う行為です。しかも「枚挙の規則」も守っていません。その結果、確かにデザインすることは可能ですが、それが本当に正解なのかは不明であるという、科学的方法とは異なる性格を持つことになっています。その結果正しくない結果によって、現代の邪悪なるものを生むことが避けられないのではないかと思われます。
この解釈が正しければ、真理探究の唯一の方法であると我々が考える科学は、実はデカルトの要求を半分しか満たしていないということになります。人工化あるいは人工物に伴って発生する望ましくない状況は、実はデザインの思索の過程に潜んでいるのではないか、デカルトはそのことを省察して、すでに400年前に規則として「総合の規則」と「枚挙の規則」を定めたのではないかと考えます。
この考えに立てば、分析する科学と同じようにデザインの思索過程を明確に定めること、それを分野別でなく、あらゆるデザインに共通のものとして作ることがデカルトの要請に応えることになるといえて、これが「一般デザイン学」の歴史的な背景ということができます。
[引用文献]
1)デカルト 方法序説 谷川多佳子訳 1997 岩波書店
2)この「方法の規則」をもっと正確に知りたい人は、「デカルト 精神指導の規則 野田又男訳 1950 岩波書店」を参照のこと
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